信時正人の都市学入門(1)横浜に見る海洋都市への胎動
- 2018年04月16日
背伸びしてみる海峡を、今日も汽笛が遠ざかる、、、、
森進一の港町ブルースですが、我々くらいの年代には懐かしい定番の歌でしょうね。
この歌詞の中には横浜は出てきませんが、函館から、宮古、焼津、高知、最後は鹿児島まで全国の港町を歌いあげています。当然、横浜の港をモチーフにした歌も多くあります。いしだあゆみ、青江三奈、五木ひろし、サザンオールスターズ等々。
「港町」。このイメージは新しい古いはあるけれど、人々の心にノスタルジーや哀愁感、或いは、開放感、期待感、を呼び起こし、何か揺さぶられるものがあるのでしょうね。
しかし、私は、この「港町」、というものは、現在では、演歌の世界にしかないのではないか、と考えています。実際には「港」と「町」となっていると思うのです。決して一体的に計画され作られているわけではないという事です。
自治体においては港湾局と都市整備局は別に存在しますし、国では今こそ国交省という名前で、一緒になっていますけど局が違います。その昔は建設省と運輸省に分かれていましたね。横浜市のみなとみらい21の開発においては建運戦争、と一般には言われたせめぎあいがあったと聞きます。コンベンション施設のパシフィコ横浜に隣接している道路がその境界となっているようで、海側が運輸省管轄、陸側が建設省管轄という事だそうです。
しかし、みなとみらいの場合、海側に臨港パークという緑豊かな公園があり、日本のほかの埋め立て地とは違った様相を示しています。戦争という言葉を使いつつも建設と運輸両省がうまく共同で開発を進めた、という評価になっていますけど、海から、或いは港の機能からみたまちづくり、という事ではなかったと思います。
一方、私は、そもそも、都市というものは、食い扶持がどうなのかで様相が変わってくるという事を持論としています。要するに産業が何かで決まってくる、と。
戦後日本は港湾地区に立地する重化学工業が引っ張ってきました。工場群や発電所、そこに資材を運び、さらに製品を運び出す港湾施設、これらの整備によって日本は成長してきました。港湾を中心とした都市つくりが主流となって日本の骨格を決めてきました。海域の埋め立て、堤防、突堤、港湾施設等々、非常に大きなハード整備が基本でした。
その結果、日本は経済的にも成功はしてきたのですが、横浜では海岸線が140㎞もあるにも関わらず、人がアクセスできる海岸が14㎞、泳げる海岸が1.4㎞という状況を招いています。海辺に住んでいるという認識がほとんどない横浜市民になっています。
現在、日本の港湾で取り扱っている貨物の量はどうなっているかご存知ですか?
2015年の統計では世界で一位が上海港、二位がシンガポール港、日本の一位の名古屋港で世界19位、二位の千葉で24位、横浜港は日本で三位、世界では35位となっています。扱い量で言えば、名古屋で上海の約30%、横浜は20%弱でしかないのです。かつて、神戸港が世界で4位の取扱量を誇っていた時代が遠い昔となりました。
ここに至ってはこれまでのような量を追っていくハード中心の港湾都市ということが売り物ではなくなってしまいました。これからの海洋都市は別のアプローチを模索すべきです。エネルギー、食糧、資源、というものに的を当てた海との付き合いを進めていくのがこれから必要なことではないか、と考えています。工学的なアプローチから理学的なアプローチへ、とでも言えるかもしれません。
里山里海という言葉が世界の共通語になってきている状況もあり、また、パリ協定に加えてSDGsが世界の指標となってきている現在、海洋に面した横浜市のような都市が目の前にある豊富な資産である海から発想する都市つくりを、これまでの延長線上にないアプローチで考え実現していくことが魅力ある都市つくりに重要なことではないかと思っています。
私が横浜市で始めた地球温暖化対策の一つ、ブルーカーボン。2009年にUNEPが提唱した言葉ですが、横浜は、自身の水源林のある山梨県道志村の森林でのカーボンオフセットをやっていたけど、海洋に面した都市だから海とやろう、と考え実施しました。世界に先駆けてクレジットの仕組みも作って横浜でのトライアスロン大会はこれでカーボンオフセットしています。これをきっかけにこれまでの延長線上にない都市つくりへの胎動が始まっています。
次回から私なりの都市学を述べていきたいと思っています。